ステップ5クリスチャンとは?


クリスチャンになるとはどのような事だと思いますか?クリスチャンと他の人にはどのような違いがあると思いますか?


このステップでは「クリスチャンとは何か」そして「クリスチャンになると人生はどう変わるのか」を考えていきます。聖書は、クリスチャンになることで人生に起こる素晴らしい変化について語っています。クリスチャンとは...

  1. 神の子ども

  2. 赦されている

  3. 愛されている

  4. 義とされている

  5. 聖なる者とされている

  6. 新しく生まれている

  7. 選ばれている

  8. 贖われている

  9. 神と和解している

  10. 自由

  11. 救われている

  12. 新しい創造

  13. さらに、まだまだあります!1

この一つ一つについて言えることは沢山あります。しかしここでは、クリスチャンがイエスの弟子であるということに焦点を当てて学んでいきましょう。これこそ、特に実践的で土台となるクリスチャンの特徴です。

弟子とは?一般的に弟子とは生徒や見習いのように、誰かに従って学ぶ存在です。ですから、弟子には師匠や教師、模範となる生き方などが必要です。例えば今の社会でも、職人などは師匠に弟子入りして知識と技術を身につけようとします。イエスの時代の1世紀のパレスチナでは「ラビ」と呼ばれる旧約聖書の教師が弟子を取っていました。

同じようにイエスも「自分について来るように」と人々に言いました。この言葉は弟子になるようにと人々を招くときに使う言葉でした。

マルコの福音書1章16-20節、2章14節

イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。また少し先に行き、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネをご覧になった。彼らは舟の中で網を繕っていた。イエスはすぐに彼らをお呼びになった。すると彼らは、父ゼベダイを雇い人たちとともに舟に残して、イエスの後について行った。...イエスは道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。

この後、十字架にかかって死に、復活したイエスは、さらに多くの人々をイエスの弟子にするという使命を弟子たちに与えました。

マタイの福音書28章18-20節

イエスは近づいて来て、[弟子たち]にこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」


誰かに弟子入りしたり、それに似た形で何かを学んだことがありますか?弟子としての学びにはどのような特徴がありますか?


イエスはどのようなラビか?イエスが弟子たちを招いたことは、ある意味では当時の文化でよく見られたラビと弟子の関係に似ています。しかし、しっかり見ていくと、イエスと弟子たちとの関係が型破りだったことがわかります。

例えば、イエスは弟子たちと親密な関係を持ちました。弟子たちを愛して、友と呼びました。2また、イエスはただの教師ではありませんでした。イエスは神の現れであり、神の国の真の王でした。弟子たちにとってイエスは教師以上の存在であり、イエスを主や神と呼んでいます。3イエスの生き方は数多くある生き方の1つではなく、本当の意味で人間として生きるための唯一の生き方です。イエスは弟子となる全ての人に、人生の全てを捧げてイエスの権威に従うようにと求めています。

ルカの福音書9章23節

イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」4

イエスが弟子として招いたのはどのような人々か?イエスの弟子になることは全てを捧げることですが、イエスはどんな人でも弟子となるように招いていてくれます。

当時のラビたちは普通、優秀な人だけを弟子として選びました。それは、社会的に地位が高い人、お金持ち、頭が良い人たちなどです。しかしイエスはどんな立場の人でも弟子として求めて招いてくれます。イエスは宗教的にも社会的にも、のけ者にされていた人たちや、当時の社会

しゅぜいにんでは回復不可能な罪人だと思われていた収税人や売春婦を弟子として

招きました。

ですから、弟子たちに何か良い部分があったからイエスが弟子として選んでくれたわけではありません。それは今でも一緒で、イエスはただ恵みによって私たちを弟子としてくれます。

コリント人への手紙第一1章26-29節

兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。

イエスの弟子になるためには、聖書の知識検定に合格することも、良い人間であると証明することも、善行を積むことも必要ありません。イエスを信じて、イエスを主と告白することで、私たちはイエスの弟子として歩み始めます。5

現代の私たちはどのようにイエスに従うのか?イエスが地上にいたときに、弟子たちがどのように従っていたのかは想像しやすいかも知れません。彼らはイエスと一緒に旅をして、食事をじかしました。何をやる時もイエスと一緒でした。イエスの教えを直に聞き、質問し、イエスの生き方を間近で見て真似ることができました。では、今の私たちはどうすれば良いのでしょうか。イエスを直接見たり、声を聞いたりできない私たちは、どのように弟子として従えるのでしょうか。

その答えは、イエスが聖霊を通して今も弟子たちと一緒にいてくれることにあります。十字架にかけられる少し前に、イエスは弟子たちにこのように伝えました。

ヨハネの福音書14章16-23節

「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」イスカリオテでないほうのユダがイエスに言った。「主よ。私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか。」イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」

ここでイエスが教えているのは、イエスが死んで復活して天の父のもとに上った後にも、聖霊を通して弟子たちと共にいるということです。しかもイエスは、肉体的にイエスが一緒にいるよりも、聖霊を通して一緒にいる方がいいんだと言っています。6

だからこそ、イエスが天に帰った後もクリスチャンは自分のことをイエスの弟子と呼び続けたと聖書の「使徒の働き」に書かれています。中には、もうここにはいない死人の弟子であるとはどういうことだと思った人もいるでしょう。けれども、復活したイエスは生きていて、当時の弟子たちと共にいたように、現代のイエスの弟子たちとも共にいてくれます。イエスは弟子たちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と約束しました。7


イエスが今もご自身の弟子たちと共にいることを考えると、クリスチャンになることへのあなたの印象は変わりますか?


イエスの弟子になるとは具体的にどういうことか?イエスの弟子になることを簡単にまとめると、「イエスと共に過ごす」、「イエスのようになる」「、イエスの働きに参加する」という3つになります。

イエスと共に過ごす

イエスの弟子としてのまず最初の目的は、いつもイエスと共に過ごすことです。これは、1世紀の弟子たちが、なるべくいつもラビの側にいようとしたのと似ています。実際には、イエスはいつも弟子たちと共にいてくれます。けれども弟子たちの意識はすぐにそれていってしまいます。ですから、大切なのは、イエスが共にいることをもっと意識できるようになることです。

イエスも静かな時間を作って、父である神に祈り、神と共に過ごすことの大切さを理解していました。

マルコの福音書1章35節

さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。

同じように、イエスが弟子たちを招いたのも、イエスの働きに参加させるためだけではなく、ただイエスの側にいるようにするためでもありました。

マルコの福音書3章14節

イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ...

時にイエスは、イエスと一緒に時間を過ごして休息するようにと弟子たちを招きました。

マルコの福音書6章31-32節

するとイエスは彼らに言われた。「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。そこで彼らは、自分たちだけで舟に乗り、寂しいところに行った。

一般的なラビに従って学ぶ弟子の目的は、知識や技術を習得して、いつかは自分自身がラビになることでした。けれども、クリスチャンがイエスから卒業することはありません。イエスは神です。ですから、クリスチャンがイエスと共に時間を過ごす時、それは神と共にいることになります。そして、この神との特別な関係の中で生きることこそ、人間の造られた目的です。8

聖書では、意識的にイエスと共に時間を過ごすことを、イエスに「とどまる」と表現しています。

ヨハネの福音書15章4-5節

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。9

イエスの弟子は、祈り、神の言葉である聖書を読むこと、そして礼拝を通して、イエスと共に過ごすことができます。10


イエスと一緒にいると感じたことはありますか?その時の経験はどのようなものでしたか?


イエスのようになるクリスチャンの目的の2つ目は、イエスのようになることです。ラビの弟子がラビの生き方を真似るように、イエスの弟子もイエスが生きたように生きようとします。イエスのように生きる(歩む)ことは、イエスと共に過ごす(とどまる)ことから自然に溢れ出てきます。

ヨハネの手紙第一2章6節

神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。

クリスチャンはイエスに似たものへと成長し続けていきます。それは、話し方も、行動も、考え方も、感情も毎日イエスのように変えられていくことです。イエスのようになることは、もっと道徳的で正しい人になることだけではなく、人間としての正しいあり方を身につけることです。イエスが神でありながらも真の人となった方だからこそ、イエスの生き方こそが人間のあるべき生き方の完璧な模範です。そしてイエスの生き方は、神を愛し、人々を愛する生き方です。11

イエスのようになることは、神の愛や救いを得るための手段ではありません。イエスはありのままの私たちを受け入れて、弟子としてくれました。イエスのようになることは、救いの手段ではなく目的なのです。12

私たちは、聖霊の働きにより少しずつ変えられてイエスのようになっていきます。それは一生をかけて少しずつ起こります。そして新しい創造で、ついにクリスチャンはイエスの栄光の姿を完全に映し出す者になります。13

実際に私たちを変えるのは聖霊の働きですが、私たちは聖霊が働く環境を作り出します。聖霊に火をつけてもらうためには、弟子が薪を準備する必要があります。具体的には、福音を信じて生きる、聖書の教えを学ぶ、クリスチャン同士の交わりに積極的に参加する、霊的な習慣を身につけるという4つが霊的に変えられていく基本的な方法です。14

イエスの働きに参加するイエスの弟子の3つ目の目的は、この世界でのイエスの働きに参加することです。イエスは神の国を建てあげるという使命を持ってこの世界に来ました。神の国の真の王としてイエスは、十字架上で死に復活することで、神の国を地上で正式に始めるという特別な役割を果たしました。そうして始まった神の国は、天と同じように、地上でも広げられる必要があります。15そしてイエスは、聖霊を通して教会によって、今でもこの世界で神の国を広げるために働いています。

イエスの弟子として私たちがイエスの働きに参加する方法はいくつもありますが、ここでは代表的な3つを紹介します。

弟子を作る-神が王として認められているところでは、人々はイエスにある赦しを信頼し、神を神として敬い、お互いを愛し合います。弟子たちは、イエスの弟子を作ることで、このイエスの働きを広げます。16具体的には、福音を伝え、信じた人に洗礼を授け、弟子となった人にイエスの生き方に従うように教えます。

正義とあわれみを行う-神が王として礼拝されているところでは、不正義は排除されます。イエスの弟子は、力や暴力によってではなく、イエスのように愛と自己犠牲によって正義のために働きます。公正に正しく生き、周りにある不正義について神に訴え(祈り)、愛を持って不正義について人々に訴えかけます(抑圧されている人のために立ち上がります)。

神が王として治めているところでは、空腹は満たされ、仲間はずれの人は温かく迎え入れられ、孤独な人には寄り添う人が、病人には面倒を見る人がいて、着るものがない人には服が与えられます。イエスの弟子は、必要を抱えている人を助けることであわれみを示します。17

仕事-イエスが神の国の素晴らしさを広げるのは、私たちの日々の仕事を通してです。先生でも、会計士でも、経営者でも、小さな子どものお母さんでも、あなたの毎日の仕事はイエスの働きの一部です。イエスの弟子として、神が人間に与えた特別な役割を果たしてイエスの働きに参加するために、自分の仕事を行いましょう。18

多くの場合、「弟子作り」「正義とあわれみ」「仕事」というイエスの働きの3つの側面は繋がっています。私たちは福音を伝え、正義を求めて祈り、あわれみを示し、自分の仕事をすることで、この世界で神の国を広げるイエスの働きに参加します。19

私たちがイエスの働きに参加するのは、それを通して神に受け入れてもらうためでも、自分が誇れる者になるためでもありません。20イエスの弟子は神の働きを自分の人生で経験しているからこそ、天と同じように地上でも神の国が広がるように望みます。21ですから、イエスの働きに参加することも、神が私たちに与えてくれている恵みなのです。


このステップを学ぶ中で、イエスについていきたいと強く感じた点がありましたか?どの部分でそう感じましたか?

イエスの弟子になったら、あなたの人生はどのように変わると思いますか?

イエスは弟子になるようにとあなたを招いています。イエスに従いたいですか?


もう一度、ステップ3で見た以下の質問を考えて、イエスの弟子になりたいかどうか考えてみてください。

  1. すべてを造った、唯一の真の神を信じますか?

  2. イエスは神が人となった存在で、世界の真の王であるキリストだと信じますか?

  3. あなたには罪があり、神の正しいさばきを受けるべき存在だと信じますか?

  4. イエスがあなたの罪のために十字架にかかって死んだことを信じますか?

  5. イエスが死から復活したことを信じますか?

  6. イエスを自分の主として告白しますか?

  7. あなたは自分の罪を悔い改めますか。そして洗礼を受け、新しいいのちに歩みたいですか?

もしすべての質問への答えが「はい」だったならば、他のクリスチャンや牧師にそれを伝えて、一緒に「弟子として歩み出す:洗礼準備ガイド」を行ってください(128ページ)。


1ヨハネの福音書1章12節、エペソ人への手紙1章4-6節、ローマ人への手紙3章24節、コリント人への手紙第一6章11節、テトスへの手紙3章5節、コリント人への手紙第二5章18節、ヨハネの福音書8章36節、エペソ人への手紙2章8節、コリント人への手紙第二5章17節

2ヨハネの福音書15章13-15節

3ヨハネの福音書20章28節

4ルカの福音書9章57-62節

5ローマ人への手紙10章9節を参照。さらに学ぶためには、「弟子として歩み出す:洗礼準備ガイド」。

6ヨハネの福音書16章7節

7マタイの福音書28章20節

8神と共にいることこそ、私たちが罪の結果として失ったものです。イエスは、私たちと共にいる神としてこの世界に来ました。イエスが、私たちと神との関係を回復させてくれ、その関係は今は聖霊を通して、そしていずれ来る新しい創造では神が人と共に住むという形で与えられます。

9ヨハネの福音書15章1-8節、17章24節

10イエスと共に過ごす方法はたくさんありますが、その中で祈り、聖書を読むこと、礼拝は基本であり、土台となるものです。具体的にどのようなことをするのかは、ネクストステップ

11マタイの福音書22章37-39節

12エペソ人への手紙2章8-10節

13ローマ人への手紙8章29-30節、コリント人への手紙第二3章18節、ピリピ人への手紙1章6節、ピリピ人への手紙2章12-13節

14それぞれについてネクスト・ステップ。でより深く学ぶことができます。

15マタイの福音書6章10節

16マタイの福音書28章18-20節

17マタイの福音書25章31-46節

18ステップ1と4、創世記1章26-28節、2章15節、ペテロの手紙第一2章9-12節、ネクスト・ステップ

19詳しくはネクスト・ステップ

20エペソ人への手紙2章8-10節

21マタイの福音書18章33節